何しに行ったんだっけ?(その28)
浮世絵か、まあよくわからんのだが

多分、三島や箱根以外も展示してたと思うが
写真撮ってたのはこの2つだけ。
よくわからんといっても、箱根のこのデフォルメ
こんな表現ができるのは凄いというのはわかる。
湖水図とあるから、芦ノ湖からだろ。


芦ノ湖からといえば定番のこれだが、(再掲)
湖水図は右手に東海道だけど、鳥居は描かれてない。
もっと西側かな?

東海道駅路の鈴ってなんだ?
作品名か、紀行文ってことかな?
旅情を掻き立てるのはこういう本ぐらいだったろうしな。
これは絵入りか
文字は意味が無い(泣)ので絵の方をクロップ
谷、谷の文字が..
どの辺かというと..西坂のどこか..
右端に山中の文字が見えるから笹原新田あたり?
まさか塚原新田から山中新田まとめて?
でもガイドブックとしてはそのぐらいに圧縮しないと
携行できる大きさになんないよな。
しかし東海駅旅人通(1805)..いかにもな書名だ。
これもガイドブックかな?
こっちは、五海道中細見記(1858)。
更に五十年後か、こういうのどれだけの頻度で改訂出版
されたんかね。
なんせ人生五十年の時代だし、街の新陳代謝どのくらいだろう。
飯盛女を勧められることのない安心して泊まれる旅籠って...
時代劇の漫画だと当たり前に出てくるが、
やっぱ普通の感覚だと当時としても、
本来、そういうの客引きなわけだからうっとおしいよね。
せっかくなので個別ページでクロップ、左。
え~っと、真中に書かれてるのは土曜日に災害が起こった黄瀬川。
あの橋は多分、当時だから、毀損の黄瀬川大橋でなく、
通れると思って通行止めだった黄瀬川橋かな?
よくわかってないが、迂回路細いし多分旧道な気がする。
黄瀬川より左は沼津なので、城主の水野出羽守の文字が見える。
右は、箱根路か、結局距離に関しては宿場間のしかないのか
歩きだったことを考えると、もう少し細かく欲しいところだが。
それよりも、上の案内にあった、旅籠は浪花講と重なってるって?
大阪府立中之島図書館の”浪花講定宿帳と道中記”がヒットした。
”江戸時代後期には、旅が盛んになり、街道筋には旅籠も増えてくるが、
一人旅の宿泊を断る宿や、飯盛女を置く宿なども多く、安心して泊まれる
宿選びに難儀する人も多かった。”
はい、今でも一人予約のプランがない旅館も多いです...
そりゃ経営的には2名の方が効率いいだろうけどさ...
”大坂玉造で、綿打ちのための唐弓の弦を商っていた松屋甚四郎の
手代源助は、諸国を行商していたが、誰でもが安心して泊まれる旅籠の
組合をつくることを思い立ち、文化元年(1804)、
旅宿組合「浪花組」を結成した。”
”全国主要街道筋の真面目な優良旅籠を指定し、加盟宿には目印の
看板をかけさせるとともに、旅人には所定の鑑札を渡し、宿泊の際には
提示するようにした。”
なるほど、浪花講は優良旅館の組合か、
そういえば(最近そんなん無視してる、結局色んな旅館が登録されて
意味がなさそう)ガイドブックにも、なんとか組合加盟旅館リストって
あった気がする。それのはしりか。
”浪花講が世に知られ好評を博すようになると、同様の組織を真似た講が、
次々につくられ、様々な定宿帳が発行される。
天保元年(1830)には、大坂を講元として、京・江戸を世話方とする
「三都講」が発足し、安政2年(1855)には、江戸で「東講」が結成される。”
そこに、この本も記載があった。
”『五海道中細見記』 <子-556> 大城屋良助著
安政5年(1858)刊
『東講商人鑑』の付録として配付された道中図。
絵地図が詳しく、脇街道にいたるまで細かく描かれている。”
付録だったのね。
でまあ確かに、その27で調べたら三島だけでも74軒も旅籠が
あるんだから、その中からどうチョイスして本に載せるのかというのは
重要だし。チョイスされた宿だけが載ってると。
あ、次の展示が浪花講だった。
浪花講と同じようなのが沢山出来たって
そういえば、旅館の玄関とかも、何とか組合とか、複数の組合いの
看板なりシールを見かけた気が。
上の五海道中細見記と、浪花講は別団体って説明だったし。
いくつも団体があって、それぞれに登録って、
今に始まったことじゃないのね。
最初は意味があったものが段々形骸化していく流れ...
本当終わらん、というところでその29に続きます。
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